【仏教ブログ】梅雨入り。雨の行く先に浄土を思う。

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

5月末から全国各地で夏日が続き、今年も猛暑とともに梅雨時期から各地で大雨が降るのではないかと予想されています。

雨が降りすぎるのも困りますが、やはり梅雨時期にある程度は降らないと水不足になってしまいます。雨は、どこにも差別無く降り注ぎます。ある家だけは、雨がよけていくということはありません。

こうして平等に降り注いだ雨は、さまざまな川となって分かれていきますが、最後は同じ一つの海となります。

この多くの川が最後は一つの海に流れていくことを、阿弥陀仏の救いに譬えられています。

親鸞聖人は正信偈に、このように書かれました。

凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味

(凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし。)

【現代語訳】

凡夫も聖者も、五逆のものも謗法のものも、みな本願海に入れば、どの川の水も海に入ると一つの味になるように、等しく救われる。

凡夫というのは、煩悩にふりまわされる日々を送る私たちのような存在をいわれています。聖者というのは、修行をし、悟りをひらいていかれるような方です。五逆や謗法というのは、仏教で教えられる恐ろしい罪を作った人のことをいいます。

そのようないろいろな違いはあっても、阿弥陀仏に救われると同じように浄土に往生して仏とさせて頂けるようになります。

そのことを、さまざまな川の水が、海に入ると同じ一味の海水になることに譬えられたものです。

私が今生きている環境は、一人一人違います。「川の流れのように」という歌もありましたが、それぞれの生は川のように一人一人流れています。別の川になることはできません。環境も違えば、抱える苦しみも異なります。小川のように流れる人生もあれば、曲がりくねった川のような人生もあるでしょう。

そのどれもが、阿弥陀仏の本願の海に入れば一味の救いになるのだと教えられています。川の水を拒絶する海は無いように、本願海はどんな人も救ってみせるとよびかけられています。

同じ浄土に往生する人生となるようにと、梅雨に降る雨を見たら思い出して頂きたいと思います。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺 信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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