【仏教ブログ】「私がさびしいとき 仏さまはさびしいの」(金子みすゞ)に学ぶ

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

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前回紹介した金子みすゞの詩についての続きです。

私がさびしいときに よその人は知らないの。

 私がさびしいときに お友だちは笑うの。

 私がさびしいときに お母さんはやさしいの。

 私がさびしいときに 仏さまはさびしいの。 

(金子みすゞ・さびしいとき)

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私の「さびしい」に共感してともに「さびしい」となって下さるのを、「慈悲」の「悲」といいます。「悲」はサンスクリット語のカルナーを訳されたものです。カルナーは元々の意味は「うめき」ともいわれ、他人の苦痛をわが事として苦しむことから、同情・共感の意味をあらわすようになりました。

そこで慈悲とはこのような意味で書かれています。

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慈悲 苦を除き楽を与えること。衆生をいつくしんで楽を与えること(与楽)を慈、衆生を憐れみいたんで苦を抜くことを悲という。(浄土真宗辞典)

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また、慈悲というのは苦しむ相手に対して、上から助けの手を下げるというものではありません。相手の苦しみを、自分の苦しみと感じるところから起こるものですから、「同体の慈悲」ともいわれます。

阿弥陀仏は、その慈悲から私の後生を救うという本願を建てられました。その本願に救われると、今度は阿弥陀仏がそれを喜ばれるのです。

蓮如上人の書かれた御文章には、このように書かれています。

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後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。(2帖目13通)

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阿弥陀仏が、後生たすけると私に呼びかけられることに対して、その仰せに従い救われると、阿弥陀仏は深く喜ばれて、八万四千という大きな光明を放って私をおさめ取って下さいます。

阿弥陀仏に救われた喜びというのは、私一人が喜んでいるのではありません。

「私がさびしいときに 仏さまはさびしいの。」ですから、

「私がうれしいときに 仏さまはうれしいの。」なのです。

さらに視点を逆転すると

「仏さまがうれしいときに 私はうれしいの。」

というのが、阿弥陀仏におさめ取られた喜びというものです。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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