【仏教ブログ】ソーシャルディスタンスで感じる距離感は、実は人生の実態をあらわしているのかも

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

新型コロナウイルスの感染拡大防止に向けて、最近よく耳にするようになった言葉の一つが「ソーシャルディスタンス」です。飛沫感染を防ぐ為に、他人と2メートル以上の距離を置きましょうというものです。それによって、4月の緊急事態宣言以降、全国のスーバーやコンビニエンスストアではレジに並ぶ列に、二メートル間隔を開けるための足型マークが付けられるようになりました。

加えて、スーバーでもほとんどの人がマスクを着用しており、そこで知人に会ってもマスクを掛けたままお互い距離をとって手短に挨拶をするような光景を見るようになりました。また、三密(密閉、密集、密接)を避けるということで旅行も食事会も寄り合いも自粛となり、加えて移動自粛の要請もあり、都道府県をまたいだ先の家族や友人に会うことも難しい期間が続いています。その結果、家にいる時間が多くなった人も多いと思います。また、一人でいる時間が増えた人も多いと思います。

そこで感じるのは「人に会いたい」という欲求です。しかし、よくよく考えて見ると、新型コロナウイルス以前に自由に人と会ったり話が出来る環境だった時に、本当に人と会っていたのでしょうか?マスク越しや2メートルの距離をとっての会話は今までの人間関係を可視化したものにすぎません。マスクを外して、近い距離で会話をしたとしても本当にその人と分かりあうことができるのでしょうか?本当に相手と分かりあうことを「人に会った」というのであれば、私たちは人に会っていないのかもしれません。

そういう意味で、人は独りなのだということを知らされるのが最近の社会状況です。

そのことを、お釈迦さまは、仏説無量寿経にこのように説かれています。

「人、世間愛欲のなかにありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る。」

(現代語版)

人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。

「善悪自然にして行を追うて生ずるところなり。窈々冥々として別離久しく長し。道路同じからずして会ひ見ること期なし。」

(現代語版)

それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのである。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じではないからまず出会うことはない。

人は生まれた時も独りならば、死んでいくときもまた独りです。

そして、生きている間に出会った人々とも、それぞれの行き先は別々となり、一緒に死んでいくことはありません。

ソーシャルディスタンスで感じる距離感や孤独感は、実はソーシャルディスタンスによるものではなく実際の孤独感をよりわかりやくすくしたものです。

しかし、こういう私たちに共に一つの処で会うことが出来るといわれたのが、阿弥陀仏の浄土であり、その阿弥陀仏の浄土に往生する道を教えられた浄土真宗です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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