【仏教ブログ】「密」を避ける昨今ですが、とても親密なのが阿弥陀仏です2

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

前回の記事の続きとして書きます。

阿弥陀仏と私は疎遠な関係ではなく、親密な関係です。念仏するものを、摂め取って捨てることはありません。それについて「親縁」ということについて書かれたのが、前回紹介した善導大師の「散善義」のお言葉です。「親縁」とは親しい関係ということです。

一には親縁を明かす。衆生、起行して口に常に仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまう。身に常に仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまう。心に常に仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまう。衆生、仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまう。

彼此の三業、あい捨離せず(彼此三業不相捨離)。故に親縁と名づくるなり。(定善義)

私が口に南無阿弥陀仏と申すと、いつどこで何回称えたとしてもその全てを阿弥陀仏は聞いておられます。私が阿弥陀仏をいつどこで合掌礼拝しても、阿弥陀仏はそのすべてを見ておられます。私が心に阿弥陀仏をいつどこで念じても、阿弥陀仏はその全てを知っておられるます。

私が阿弥陀仏を思えば、阿弥陀仏もまた私を思っておられます。

このように阿弥陀仏(彼)と私(此)の体の行い、口から出る言葉、心で思うこと(三業)は互いに捨てたり離れることがありません。こういうことから「親縁」といわれます。

人間同士だと、何かを思ったとしても口に出さねば相手に伝わることはありません。また、仮に言葉にしたとしても部屋で一人つぶやいても相手は知ることはありません。相手に近づいて言葉にしないと私の思いは伝わることはありません。

「密」を避けようという昨今では、身体的な距離も、心理的な距離も感じる場面が増えてきました。しかし、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏と私に呼びかけられています。その南無阿弥陀仏とは、われをたのめ、必ず救うという阿弥陀仏の救いの喚び声です。

その南無阿弥陀仏を私が聞いて疑い無いことを信心といいますが、その上で、私と南無阿弥陀仏は常に離れずともにあることになります。どんなに一人だと思っても、念仏の摂め取って捨てられません。私を決して一人にしておかれないのが阿弥陀仏です。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺(富山)信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。

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