仏教は誰のため?父の葬儀を通して 2018年12月18日 16:12

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。
今回が、初めての投稿になります。よろしくお願い致します。

こちらは「仏教ブログ」ということで、浄土真宗に限定しない形で、仏教に少しでも関心を持たれた方にむけた形で書いていきたいと思います。講座や講義のような形ではなく、御自身の実生活によりそった内容を目指していたいと思います。

そこで、第一回目は「仏教は誰のため?」ということについて書いていきます。
このような内容について書くのは、寺の役員をされているような方を除くと、多くの人に取って「仏教」「寺」「僧侶(または住職)」とは、自らが喪主なるとき以外は接触がないのではないでしょうか?

私個人の経験を書きますと、私の父は2015年1月に脳幹出血で午前6時頃倒れて、同日18時には息を引き取りました。私は長男でしたが、親戚も含めて最初に問題になったのは「どこの寺に電話したらいいの?」でした。といいますのも、私の父親は出生地を離れて、自営業を始める為に市街地に引っ越して店を構えていたからでした。先祖代々お世話になった寺は跡継ぎはなく、過疎化で別の寺の住職が兼任するという状態でした。

そこから親戚があちこち調べて葬儀を含めてお世話になる寺を調べて電話をしました。その後、通夜、葬儀、火葬、49日の法要、納骨と続きました。

この文章を読まれている方で、喪主になられたり、また身近な方の葬儀に参列された方もあると思います。そういう「葬儀の当事者」にとって「仏教」「寺」「僧侶(または住職)」は、「亡くなられた方のためにあるもの」と思われる方も多いかも知れません。

実際私も、亡父の葬儀の喪主としていろいろと関わってきて見えてきたことは、ほぼ全員といっていいくらい「仏教」「寺」「僧侶(または住職)」は、「亡くなられた方のためにあるもの」と思われているのだなということでした。

言い替えると「まだ死んでもいない自分には関係ないもの」と思われる方も多いということです。ですから、葬儀に関係して「あの一連のことはどういう意味があったのだろう?」と思われている人もあるかもしれません。

ここで、結論をいいますと仏教とは「死んだ人のためではなく私のための」「死んでからではなく今の」ものです。

そういうことを中心に「仏教は私のためのものだったのか」と知っていただきたいと思って今後このブログに書いていくので宜しくお願いいたします。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。