【仏教ブログ】死ぬことが悪い理由を剥奪説から考える 2019年11月28日 18:11

光顔寺明照廟堂(光顔寺 納骨堂)のスタッフ、仏教アドバイザーの宮田秀成です。

人はいつかは死なねばなりません。

そして人は死ぬことをついて大変恐ろしく思います。また、死ぬことは悪いことだと考える人も多いです。では、死ぬことの何が悪いのでしょうか?

最近話題の本で、以下ものがあります。

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義(シェリーケーガン著)

著者はアメリカの大学で講義をもっている哲学者です。その著者が言うところによると、死が悪いのは、「剥奪されること」によるものだと言っています。

これを剥奪説と言いますが、剥奪というのは生きていれば得られたかもしれない幸せを死によって奪われる事を表しています。確かに生きていれば、いいこともあります。それが失われるから死が悪いというのものです。

しかし、多くの自殺をする人は、生きていてもこれより幸せな事は起きるはずがないと思って自殺をしています。そういう人に対してこのような説明はあまり意味がないことになってしまいます。

では、生きていれば本当に良いことがあるのでしょうか。それがあると教えられているのが仏教です。特に浄土真宗では、生きている間に浄土往生する身に救われると教えられています。その救いは「阿弥陀仏の本願」によってなされるものです。有名な歎異抄では、それを「弥陀の誓願」といわれています。

弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。(歎異抄第1条)

(現代文)

阿弥陀仏の誓願の不可思議なはたらきにお救いいただいて、必ず浄土に往生するのであると信じて、念仏を称えようという思いがおこるとき、ただちに阿弥陀仏は、その光明の中に摂め取って決して捨てないという利益をお与えくださるのです。

この阿弥陀仏の救いは現在生きているときのものです。死んだ後では間に合いません。生きている時に、この阿弥陀仏の救いにあうということがありますので、それが剥奪されるという意味では死ぬことは悪いことになります。

しかし、一度浄土に往生する身になれば、死ぬこともまた浄土に往生するご縁となるのでまた有り難いものと変わっていきます。

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宮田秀成/光顔寺・仏教アドバイザー(真宗教義、脱カルト担当)

Profile
1993年に宗教法人浄土真宗親鸞会に入信、10年間親鸞会講師として活動。
脱会後、親鸞会の教えの誤りに気づき、本願寺派の教えを中心に学びなおす。
現在、浄土真宗本願寺派光顔寺信徒。
   光顔寺スタッフ。仏教アドバイザー。